2004年08月27日
【ヤスカクの】プロレス最高論【自慰行為】
さて、本題はここからだ。新日本プロレスの西村修はかなりまえから「プロレス最強論」ではなく「プロレス最高論」をぶちあげている。それはプロレスには闘う者の喜怒哀楽が詰まり、なおかつプロレステクニックを駆使して、感動を生むスポーツであるという意味である。
(中略)
プロレスラーには、「総合」とプロレスとはまったく違うものだ、という認識を持って自信をもって生きてもらいたい。この間の小橋建太vs秋山準の試合。そしてG1クライマックスの高山善廣vs佐々木健介戦と決勝トーナメントの天山広吉……。どれも素晴らしい試合で、会場の観客はリングと一体となってもの凄い熱気に包まれた。このような熱気は総合格闘技の大会では生まれたことがない。それは野獣性だけが浮き彫りにされて、プロレスのような人間ドラマが見えてこないからだ。
(中略)
西村修のプロレス最高論とは、そこに格闘技大会では味わうことのできないプロレスの素晴らしさを訴えるのだ。こんなに素晴らしいプロレスが、どうしてテレビでは高視聴率を得ることができないのか。それはテレビ放送のプロレスの伝え方に問題があるのではないかと思うしかない。
ヤスカクさんのプロレスコラム。
業界内にいるヒトがこんなことを言っているうちはプロレスの復権はない。
プロレスが「スポーツ」かどうかを語ると長くなるので、この部分については割愛。
>それはテレビ放送のプロレスの伝え方に問題があるのではないかと思うしかない。
業界内で生活し、メディアにこういう意見を公開できる立場にいるヤスカク氏がプロレスの低迷をテレビのせいにするのであれば、ヤスカク氏はどういう放送内容であればプロレスが復権するのか具体的にする責任がある。
エンターテイメントとして優秀かどうかは、それを放送するテレビ局の技術によって決まるものではなく、あくまでもプロレスというエンターテイメントを提供するプロレス団体側にあると思うのは私だけか?
優れたエンターテイメントであれば、実況なしの固定カメラ放送でもおもしろいはずだと思うのだが。
総合格闘技は、最近ではシウバ戦で踏みつけにより失神した近藤の姿のようにTVでは放送しがたい残酷性(実際に地上波放送ではカットされている)を含んではいるし、蒸留水を飲んでいるような味気なさがあるのは確かだ。
しかし、ヤスカク氏のいうプロレスの持つ「人間ドラマ」、「素晴らしさ」はゴールデンタイムに家庭でPRIDEやK-1を観るような人々に今のプロレスが提供できているのだろうか?
プロレスが今やエンターテイメントとしてPRIDEやK-1にかなわないのは、お茶の間的なわかりやすさを欠いているためだ。
このままでは深夜の放送時間帯に一部のマニア向けにディープなドラマを細々と提供し続けるしかない。
業界内の人間が人気低迷の理由を外部になすりつけるような自慰行為を行って現状を擁護している限りは、いつまでもプロレスは変わらない。
こんな論を張ることしか出来ない人間が連載をしてるから「週刊プロレス」はおもしろくないんだと再認識。
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おっしゃる通り、スポーツナビのコラムを読むたび拡了氏のスタンスや論点には?が・・・
最強と最高、メジャーとマイナー、結び付け方がむちゃくちゃだと気づかない人だ。